昭和44年11月23日 特別奉修委員
                          中村良一


実篤さんのカレンダーの言葉の中に、君は君、我は我と、されど仲良しと言うのがありましたですね。確かにそうですね。同じものと言うのは、あり得ません事ですけれど。されど仲良しと言うのは、どういうところで、仲良し、仲良くあるかという事ですね。私はあの、最近、重雄さんが、毎朝、シナ茶を、あの、入れてくださるから、それを頂く訳ですが。頂くたんべんに、もう、しみじみ、有難いものを感じるんですよね。それはあの、今、教主様、金光様が、やっぱりこれを、召し上がっておるだろうと思う訳です。この頃、お土産に託けさせて頂きましたからね。恐らく、はぁ、これは、飲みにくいお茶だなと思うて召し上がりよるかも知れん。けれども、やっぱり、これは、薬の味じゃろ、薬のごたる味もしよると思いなさるかも知れん。もうとにかく、やはりあの、煎じ薬のような感じの味のお茶なんですよ。けども、あの、同じなものを頂いておるという事だけで、何か繋がるですね。今日は、教主様と、何か、今までとは違った、密接なものを感ずるです。同時に、三代金光様でも、そうでしたが。同じ糖尿病であるという事。はぁ、金光様のなさっておられる病気を、私もさせて頂いておる事、何か光栄のような気がする。ね。そういう様なね、その、なるほど、金光様、私共、それこそ、天と地ほどに違いましょうけれども。同じものを頂いておるという事だけでも、何か、そこに繋がるものを感ずるし、また、有難いですね。それが、例えば、皆が、嫌でたまらないという病気ですらです。金光様と、同じ病気をしておるという事だけでも、有難い。
ここで、良く、左の耳が、どうか聞こえん様になったとかね。なんかと言うたら、はぁ、もう親先生と、同じほうの耳がね。右のほうのがと言うたら、ほんに、左なら良かばってんちいう様な事を言う人があるんですよ。やっぱり、何か、そこに通う、ね。それこそ、君は君であり、我は我だけれども、やはり、繋がるものがあると。皆さんの場合でもそうです。同じ、一つの祈りを、一つにしておられますけれども、それぞれの信心度合いも違や、信心の性格も、色彩と言うものも、やっぱ違う、みんな。けれども、その、こうして、日曜たんべんに、同じ様な事柄を、一緒に祈れれるという事に繋がってね。皆さんの、例えば、信心共励なんかが。美登里会なんかの時に、ああした、何と言うですかね。本当、皆さんが、信心の話し合いをなさっておる時でも、もう本当に、もう、外の者が入らないような感じ。いうならば、水も漏らさんような話合いがあっておるようなものを感じるんですよね。そういうその、おかげを、お互い、頂きあっておるですがね。
今朝から頂きます御理解のように、それも、実篤つぁんの、今までは、あの、届かないと思うておった事がね。ふと、手を上げてみたら届いたとこう言うのである。という事は、それだけ、自分が成長しておる事なんですね。今までは、届かない、届かないと思うておったから、もう、手を上げようとも思わなかった。ところが、やっぱ、何時の間にか、神様のおかげで、五寸のものは、六寸に伸びとるのですからね。ふと、上げてみたら届いた。そこに、自分の成長を喜ばせて頂くといった様な意味の事じゃないでしょうかね。
例えば、今朝の御理解頂きますと。本当に、こうやって、何時も頂くことは、磨くことだ、改まることだと、結局、どの様な御理解を頂いても、ほんなら、結論は、そこになって来るのだけれども。だから、それを一心にという事になってなかったんだけれどもね。今日あたり、ふと、手を上げてみたら、はぁ案外出来ることに、皆さん、気が着かれることだろうと思う。そういうところにね、こう、揃われたら、素晴らしいことだとこう思うですね。いわば、同じ、まぁ程度の、まぁ合楽で美登里会といや、大体、同じ程度の方の信心がですね。もう、成長の程度も、大体変わるまいし、ね。皆さんが、今まで、届くまいと思うておった事に、届かれる様なね、おかげを頂く喜び。そこんところが、分からせて頂けたら有難いですね。どうぞ。